いつか笑って話せるといい、ただ涙を流すしかなかったこの想いを。
Named catastrophe, Love for You
名門青道高校野球部のOB会ともなれば、プロ野球界の一角を担う選手達が集う大規模なものとなる。
特に今日は同伴者も許されていたので、より一層華やかなものとなっていた。
「も〜!なんでこんな日まで練習してるのよ〜!」
会場に横付けされた車から飛び出してきたのは一人の青年。
「わりぃっ!・・・そういや若菜は出ねーのか?」
「こんなお腹だしね。無理しないようにしないと。」
一昨年、自分の先輩からのいささか熱烈すぎる求愛に折れた幼馴染みは、姓を倉持と改めていた。
「そっか。悪かったな、わざわざ送ってもらって。」
「これぐらいなら大丈夫よ。ほら、早く中に入らないと。」
笑顔で自分を見送ってくれた幼馴染みは、とても幸せそうでよかったと思う。
出産予定日は来月の下旬だったはずだから、その頃になにか贈り物をしようと思った。
高校時代から得意ではなかったネクタイを締めて、沢村栄純は会場へと急いだ。
「また遅刻か?好きだな、お前も。」
振り返るとそこにいたのは、かつての相棒。
最近ではメジャー行きも予想されている、天才との呼び声は相変わらず高いままの捕手は、さすがに今日は帽子を被っていなかった。
「こんなところにいるってことはアンタもだろ?」
うさんくさい、けれど世の女性達はカッコいいと言って憚らない、笑みを睨みつければ、図星だったのかますます笑みを深くした。
「1人だと気楽でつい、な。」
「そういやアンタも1人だっけ。」
日本中の誰もが(但し俺と倉持先輩を除いて、だ)美男美女のカップルだと騒ぎ、羨んだ元モデルの女性とは半年前に離婚が成立していた。
「まぁ、野球にばっかり打ち込んでたからな〜。」
彼女の浮気をスクープした記者から彼女を庇い、慰謝料として都内のマンションの一室を贈った男はある意味太っ腹だ。
全てを美談にして話題の終息を図っただけだと、倉持先輩は笑っていたけれど。
「本当にそれだけなのか?」
何の気なしに訊いたセリフのはずだった。
「鈍いんだか鋭いんだか相変わらずわかんねーな、お前。」
苦々しくセリフを吐いた御幸は、一瞬だけ壇上に視線を転じた。そこには歴代のキャプテンと監督夫妻がいた。
「やっぱしばらくは野球だけでいいかな〜」などと殊勝なことを言いつつ、さりげなく御幸はケツを撫でていきやがった。
「おまっ・・・!」
ふざけるな、と追いかけようとして誰かの肩にぶつかる。
「キャ・・・!!」
自分とは比べ物にならないほど華奢でほっそりとした肩の持ち主は、グラリと揺らめいた。慌てて手を伸ばしたけれど、その手は宙をつかむだけだった。
「・・・何をやってるんだお前は・・・」
とっさに腰を抱き寄せて、その女性を転倒から守ったのは、その女性の同伴者。
「すみません・・・、クリス先輩。」
・・・あぁ、また、胸が疼く。
「俺に謝っても仕方ないだろう。」
「すみませんでした。・・・ケガ、ないですか?」
大丈夫と頷く彼女にもう一度謝ると、その場を後にした。
呼び止める先輩の声も、聞こえないふりをして。
目を閉じて、今会ったばかりの姿を思い起こす。
鍛え上げられた体躯にまとったスーツが似合っていて、格好良かった。
その姿を見られたことだけでも、今日は来てよかったと思う。
ささやかな幸せとともに、この胸の痛みも思い起こしてしまったけれど。
優しい目と手は、もう自分のものではないのだから。
――いや、自分のものだと思ったこと自体が過ちかもしれないが。
「何してるの?」
「降谷・・・。」
ドラフト1位指名を受けた時から、いや、多分同じ高校でプレーしていた時から日本中の注目を集めているというのに、相変わらずとぼけた表情をしている男だ。
「別に何もしてねぇよ。」
「1人でニヤニヤしたり、泣きそうになったり。・・・あの時と同じくらい可哀想でみてられないんだけど・・・。」
あの時っていうのは俺たちの初対面の時のこと。まだ覚えてるなんて・・・って!
「可哀想ってどーゆーことだよっ!?」
「そのまんまだよ。」
「だっから「あーはいはい、お前達、ココがどこだか考えようね〜。」
割り込んできたのはさっきの痴漢男、もとい御幸。
腰に回された手の強さと熱さにたじろぐ。
一方の降谷も相手が御幸であるとわかると、肩にのった手を振り払えないでいた。
「降谷、また後でな。沢村、お前はコッチ。」
エレベーターに押し込まれて、たどり着いたのはシングルルーム。
スイートではないとはいえ、もともとこのホテル自体のグレードが高いのだから、この部屋でも十分豪華だ。
「クリス先輩、カッコよかっただろ。」
しゅるッとネクタイを解く音がした。
「御幸・・・。」
次いで自分の首元にも手を伸ばされる。
同じような音を立てて、ネクタイは解け、床に落ちた。
それを殊更ゆっくりと拾い上げてみせるのは、俺に選ぶ時間を与えるためだ。
伸ばされた手を、拒むか受け入れるか。
それは一種の儀式みたいなもので、形骸化していた。
いつだって、その手は必要とする時にしか伸ばされてこないのだから。
「自分で脱ぐ?」
優しい声の問いかけに焦点の定まらない視線を向けると柔らかな苦笑が返ってきた。
首筋にキスを受け、なされるがままに服を脱がされる。
そっとベッドに横たえられ、気付いた時には2人とも一糸纏わぬ姿だった。
御幸が好きかと訊かれたら、好きだと答える。
ではこういう関係になりたかった「好き」なのかと訊かれると、それはNOだ。
御幸は好きだ、一緒にいて楽しいし自分を隠す必要がないから。
でもこんな風になりたかったわけじゃない。
けれどもこの関係を必要としているのは自分の方だった。
御幸は俺の想う人じゃない。
しかし御幸こそが自分を最も理解してくれているのは疑う必要もない事実だった。
歪んだ関係に依存しきってしまっている自分のふがいなさに、そんな自分に飽きることなくつきあってくれている御幸の優しさに、視界が熱く歪む。
「泣くなって・・・。」
始まりは、もう随分前のこと。
あの人が卒業してすぐのことだった。
御幸を妬んだ他の運動部の奴らが標的に選んだのが、当時バッテリーを組んでいた俺。
その八つ当たりでしかない、事の真相は全てが終わったあとに知ったから、その時は相手も理由もわからないまま、ただ蹂躙されるしかなかった。
ボロボロになった俺をみつけたのは、ソイツらの思惑通り御幸だった。
何もかもをシャワーで洗い流して、人心地ついた俺は一気に泣き出した。
体の中で唯一意図的に守った左手で、(顔が無傷だったのは事が公になるのをソイツらが恐れて傷つけなかったからだ)縋った身体は、強く抱きしめ返してくれた。
その強さに、自分に何一つ危害を加えるつもりがない事を、ただ強く温かな優しさを感じて更に縋った。
クリス先輩がドアを開けたのはその時だった。
あの時、先輩は何を思ったんだろう。
一週間と経ってない夜に自分を好きだといった後輩が、自分がいなくなった途端に他の男に縋っている光景を見た瞬間に、何を。
無表情な目と僅かにつりあがった口元、そしてドアを閉じた音は、今も忘れられずにいる。
怒りでも侮蔑でも、貴方が俺に感じてくれていたなら。
どんなことをしてでも真実を叫び、許しを請うのに。
その道すらも閉ざされた俺にできたのは、ただその事実から目を背けることだけだった。
あの時から今この瞬間まで、あの日の俺の気持ちを伝える時間は1秒たりとて許されていない。
次にクリス先輩に会ったのは夏の大会前。
穏やかに健闘を期待していると口にした先輩からは、あの日のことは一切言われなかった。
あの日のことも、泣きながら告白した俺を抱きしめてくれた事も、一度だけとなってしまったキスも、そして先輩を想った全ての時間も。
何もかもが無かったことに、最初から存在しえなかったことにされたのだと、気付く意味も必要も知りたくなかったのに、知らされて、気付かされてしまった。
自分だけ想っていても仕方ないのだと、己も全てを放棄する決意をした時には、粉雪が舞い始めていた。
その雪が解けてから何千という朝を迎えたのに、未だに俺は諦めきれないでいる。
そんな俺に気付いたのは御幸で、手を差し伸べてくれたのも御幸だった。
御幸からしてみれば、原因の一端は自分にもあると思っていたのだろう。
与えられる全ては、何もかもを忘れてしまえると感じるほどに優しかった。
―――それでも。
御幸と俺が恋に落ちることはなかった。
勘違いでも錯覚でも暗示でも催眠術でもいいからそう思えたらいいのにと、2人で泣いたこともある。
けれど実際には2人の中には揺らぐことのない想いがあって、そのベクトルは別の人へ向かっていることなど自分のことももちろん互いのことも百も承知で。
今では、クリス先輩の姿を見るたびに凍ったようになる俺へ与えられる限りない優しさも甘い時間も、本当は御幸が御幸自身の想い人へ与えたいものなのだともわかっている。
御幸が結婚していた2年半の間も、御幸側の理由によって夜を共にすることはなかったけれど、俺がどうしようもないくらいに心を凍らせてしまった時には、こうして溶かしてくれた。
文字通り、身体で温めて。
御幸が離婚した時、もしかしなくても俺とのことも離婚の一因かと思ったが、本人から否定されたのでそれ以来何も言っていない。
・・・本当は今でもそう思っているけれど。
今の俺がそうであるように、たとえ本人が望んでたとはいえ、二重生活というのはいつか破綻するものだから。
クリス先輩を思うたびに痛みを覚え、先輩の前に立つたびに心が凍る。
そして感情のすれ違う御幸との行為が心を溶かす。
何度となく凍り、そしてその度に温めてもらい溶かされた俺の心は、もう疲弊しきっていた。
ひとり先輩を想ったのは数ヶ月。
想いが通じ合えたと思ったのはたった数日。
けれどこの胸の痛みは、数年経っても癒えない。
「もう戻るのか?」
「うん。御幸は?」
「俺はもうちょっと栄純君との甘いひとときの余韻に浸るわ〜。」
「アンタ、バカだろ。・・・ありがとう。」
期待はされていないなおざりな礼を言う。
「おう、またな〜。」
「うん・・・。」
本当は「また」なんて無い方がいいとわかっているのに、「次」があることもわかっているから口にする。
御幸が差し伸べてくれた手は、その実御幸が救いを求める手でもあった。
その手をとった瞬間、俺達は2人で、2人ともそれぞれの思いに決別をつけなければならなくなった。
バッテリーを組んでいた時よりも「運命共同体」なのだと思うと情けなくて馬鹿馬鹿しくて笑えてくる。
会場に戻った途端、クリス先輩に出会った。
偶然でも運命でも必然でも気紛れでも、その姿を見ることができて嬉しい。
と、同時に今度は1人だったことに暗い喜びを感じている。
けれどクリス先輩は違ったようだ。
俺に微かに残った情事の雰囲気を感じたのか、少し眉をひそめた。
「・・・御幸か?」
「え?・・・ぁ、はい・・・。」
自嘲の意味を込めて微笑んだ俺を見て、先輩は何を思ったんだろう。
あの時も今も、欲しがっている答えが返ってこないことだけがわかっていて、それ以外は何もわからない。
その想いを、その心をいつものように穏やかになった表情に訊いてみたかった。
けれど、・・・きっともう訊ける関係じゃない。
粉雪の中で、全てを捨てると誓いながら無様なほどにしがみついて、自分で残した希望をこの手で握りつぶす。
小さくて脆弱なそれは、最期の音さえ立てずに潰えた。
「クリス先輩。お幸せに。」
突然の言葉に一瞬驚いて、すぐに先輩は柔らかく破顔した。
「お前も。」
その背中が人ごみに紛れて見えなくなると、俺はすぐに会場を飛び出した。
だって、だってまだ。
こんなにも大好きで。
その笑みにこんなにも愛情を抱いてしまうから。
だから。
貴方の幸せを願うしかないじゃないか。
今はまだ、この胸の痛みに負けてしまうけれど。
いつか昔話にするから。
その時に貴方が笑ってくれていたなら―――
END.
最初はただただ青道面子の未来像が書きたかっただけのはずなのに…